翻訳と辞書
Words near each other
・ マリア・フォン・エスターライヒ
・ マリア・フォン・エスターライヒ (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公妃)
・ マリア・フォン・シュパーニエン
・ マリア・フォン・トラップ
・ マリア・フォン・ナッサウ
・ マリア・フォン・ハーナウ=ホロヴィッツ
・ マリア・フォン・バイエルン
・ マリア・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン
・ マリア・フョードロヴナ
・ マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)
マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)
・ マリア・フランシスカ・デ・アシス・デ・ブラガンサ
・ マリア・フランシスカ・ベネディタ・デ・ブラガンサ
・ マリア・フランツィスカ・フォン・トラップ
・ マリア・フランツィスカ・フォン・プファルツ=ズルツバッハ
・ マリア・ブエノ
・ マリア・ブッテルスカヤ
・ マリア・ブラウンの結婚
・ マリア・ブルンツェワ
・ マリア・ヘンリエッタ・フォン・エスターライヒ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后) : ウィキペディア日本語版
マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)

マリア・フョードロヴナマリーヤ・フョーダラヴナラテン文字転写の例:、1759年10月25日ユリウス暦10月14日) - 1828年11月5日グレゴリオ暦11月12日))は、ロシア皇帝パーヴェル1世の皇后。ドイツ語名はゾフィー・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルク)。'')。
== 幼少期 ==

ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世オイゲンとその妃でブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルムの娘であるフリーデリケ・ドロテア・ゾフィアの間の娘として、シュテッティン(現在ポーランドシュチェチン)で生まれた。フランスにほど近い父の領地モンベリアル伯領で育ったため、フランスのファッションや洗練といったものに幼い頃からふれ、芸術を愛するようになった(当時のドイツ・ブルジョワ階級が好んだ簡素さとは一線を画していた)。
1773年に、ロシア皇太子パーヴェルの花嫁候補となるが、まだ14歳であったため選ばれず、年齢が皇太子に近いヴィルヘルミーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(ナターリア・アレクセーエヴナ)が花嫁となった。
ゾフィーは、ヴィルヘルミーネの兄ルートヴィヒと婚約した。しかし1776年にナターリアが亡くなり、パーヴェルの2度目の妻としてゾフィーがプロイセン王フリードリヒ2世から推薦された。ゾフィーと破談になったルートヴィヒには多額の補償金が払われた。ゾフィーはロシア皇后になるという期待と喜びでいっぱいだったが、母親は幾人かの不幸なロシア皇后の末路を思い、悲嘆に暮れたという。
女帝エカチェリーナ2世は、息子の婚約者ゾフィーに会って喜んだ。可愛らしいだけでなく、2人には似たところがたくさんあったからである。名前と出生地は女帝と同じで、良い教育を受けていたことも共通していた。正教に改宗してマリアと改名し、1776年9月に皇太子夫妻は結婚した。
パーヴェルは極めて醜く、扱いづらい性格だったが、マリアは彼と深く愛し合っていた。そのため、最初は良い関係だった女帝との仲が、パーヴェルが母を嫌っていたために悪化してしまった。翌年12月、マリアは長男アレクサンドルを生んだ。わずか3ヶ月後、エカチェリーナは孫息子を両親から引き離して、自分の手元で育て始めた。両親の干渉なしに、自分の思うとおりに養育するためにだった。
1779年に次男コンスタンチンが生まれると、またしても同じことになった。両親は週に一度だけの面会しか許されず、マリアは女帝に強い憎しみを抱くようになった。その後4年間、夫妻は子供をつくらなかった。マリアは、長男を生んだ褒美に女帝から与えられたパヴロフスク宮殿を、自分好みに飾り立てることで、心の痛みから逃れようとした。マリアの努力の結晶は、全ロシアで最も美しい宮殿の一つとうたわれた。
1781年から1年間、マリアはパーヴェルと西欧を旅行した。帰国後の1782年の暮れ、マリアは長女アレクサンドラ・パヴロヴナを出産した。女帝は皇女の誕生祝いとして、パーヴェル夫婦にガッチナ宮殿を贈った。ここはパーヴェルが即位するまで、反エカチェリーナ派の集うもう一つの宮廷となった。女帝の支配が長く続く間、パーヴェルたちは苦しい収入でガッチナ宮殿に住むことを強いられた。マリアは夫の極端な性格を和らげ、有益な影響を彼に及ぼし続けた。また、パヴロフスク宮殿を美化し、周辺住民への福祉活動を行い続けた。パーヴェルが、マリアの女官エカチェリーナ・ネリドヴァと深い関係になったのは、彼女にとって許せないことだった。しかしマリアは、ネリドヴァと共同でパーヴェルの進行するノイローゼ症を中和しようとするようになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.