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マリア・フョードロヴナ(マリーヤ・フョーダラヴナ;ラテン文字転写の例:、1759年10月25日(ユリウス暦10月14日) - 1828年11月5日(グレゴリオ暦11月12日))は、ロシア皇帝パーヴェル1世の皇后。ドイツ語名はゾフィー・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルク()。'')。 == 幼少期 == ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世オイゲンとその妃でブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルムの娘であるフリーデリケ・ドロテア・ゾフィアの間の娘として、シュテッティン(現在ポーランド領シュチェチン)で生まれた。フランスにほど近い父の領地モンベリアル伯領で育ったため、フランスのファッションや洗練といったものに幼い頃からふれ、芸術を愛するようになった(当時のドイツ・ブルジョワ階級が好んだ簡素さとは一線を画していた)。 1773年に、ロシア皇太子パーヴェルの花嫁候補となるが、まだ14歳であったため選ばれず、年齢が皇太子に近いヴィルヘルミーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(ナターリア・アレクセーエヴナ)が花嫁となった。 ゾフィーは、ヴィルヘルミーネの兄ルートヴィヒと婚約した。しかし1776年にナターリアが亡くなり、パーヴェルの2度目の妻としてゾフィーがプロイセン王フリードリヒ2世から推薦された。ゾフィーと破談になったルートヴィヒには多額の補償金が払われた。ゾフィーはロシア皇后になるという期待と喜びでいっぱいだったが、母親は幾人かの不幸なロシア皇后の末路を思い、悲嘆に暮れたという。 女帝エカチェリーナ2世は、息子の婚約者ゾフィーに会って喜んだ。可愛らしいだけでなく、2人には似たところがたくさんあったからである。名前と出生地は女帝と同じで、良い教育を受けていたことも共通していた。正教に改宗してマリアと改名し、1776年9月に皇太子夫妻は結婚した。 パーヴェルは極めて醜く、扱いづらい性格だったが、マリアは彼と深く愛し合っていた。そのため、最初は良い関係だった女帝との仲が、パーヴェルが母を嫌っていたために悪化してしまった。翌年12月、マリアは長男アレクサンドルを生んだ。わずか3ヶ月後、エカチェリーナは孫息子を両親から引き離して、自分の手元で育て始めた。両親の干渉なしに、自分の思うとおりに養育するためにだった。 1779年に次男コンスタンチンが生まれると、またしても同じことになった。両親は週に一度だけの面会しか許されず、マリアは女帝に強い憎しみを抱くようになった。その後4年間、夫妻は子供をつくらなかった。マリアは、長男を生んだ褒美に女帝から与えられたパヴロフスク宮殿を、自分好みに飾り立てることで、心の痛みから逃れようとした。マリアの努力の結晶は、全ロシアで最も美しい宮殿の一つとうたわれた。 1781年から1年間、マリアはパーヴェルと西欧を旅行した。帰国後の1782年の暮れ、マリアは長女アレクサンドラ・パヴロヴナを出産した。女帝は皇女の誕生祝いとして、パーヴェル夫婦にガッチナ宮殿を贈った。ここはパーヴェルが即位するまで、反エカチェリーナ派の集うもう一つの宮廷となった。女帝の支配が長く続く間、パーヴェルたちは苦しい収入でガッチナ宮殿に住むことを強いられた。マリアは夫の極端な性格を和らげ、有益な影響を彼に及ぼし続けた。また、パヴロフスク宮殿を美化し、周辺住民への福祉活動を行い続けた。パーヴェルが、マリアの女官エカチェリーナ・ネリドヴァと深い関係になったのは、彼女にとって許せないことだった。しかしマリアは、ネリドヴァと共同でパーヴェルの進行するノイローゼ症を中和しようとするようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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